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林田カイロプラクティック院編 健康書評

 

健康... 1

『メタボより怖い「メチャド」ってな〜に?』を読んで... 1

『見捨てられたがん患者さんへ』の感想... 2

呼吸器外し不起訴で忘れられた本人の意思... 3

健康法... 4

異色の健康論『北芝健のアンチエイジング道場』... 4

【書評】『「朝5分」で、健康になりなさい』朝食抜き健康法... 5

心理... 6

『きょうだい メンタルヘルスの観点から分析する』を読んで... 6

【書評】『セックスする脳』相手の気持ちの理解が大切... 7

エッセイ... 7

『いのちの恩返し がんと向き合った「いのちの授業」の日々』を読んで... 7

 

林田力(『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者)の医療・健康関連の書評を林田カイロプラクティック院が編集した。

 

「『見捨てられたがん患者さんへ』の感想」JANJAN 2009102

http://www.book.janjan.jp/0910/0910011015/1.php

「呼吸器外し不起訴で忘れられた本人の意思」JANJAN 200091224

http://www.news.janjan.jp/living/0912/0912234711/1.php

 

健康

『メタボより怖い「メチャド」ってな〜に?』を読んで

本書はメタボリック症候群(Metabolic Syndrome)が産官学あげての国策として行われている事態に対する批判的検討の中で生まれたものである。メタボ以上に重大な健康への脅威があると主張する。それを著者は「メチャド」と総称する。

「メチャド」とは、「メチャ・ド・リスク」の略で、健康への「メチャ(めちゃ)・ド(どえりゃー)・リスク(危険)」という造語である。メタボをもじったもので、学術的なネーミングとはお世辞にも言えないが、言葉が問題なのではない。重要なのは考え方である。

本書は、専門的な医学上の知見を根拠に、メタボを悪玉視する国の健康政策やマスメディアの論調を真っ向から批判するものである。そのため、本来は非常に難解なものになりがちである。しかし、本書は一般向けに分かりやすく書くことを目指している。「メチャド」というネーミングも、この観点から理解したい。

本書は大きく三部構成となっており、それぞれのパートにおける主題が明確になっている。この点も、本書を理解しやすいものにしている。

メタボが問題視される理由は、肥満が生活習慣病など様々な病気の元凶と考えられるためである。しかし本書は最初のT部「「メタボは怖いって」騒がれているけれど」において、肥満そのものよりも、高血圧や高血糖のような危険要因を複合的に抱えている人が危険とする。また、メタボの要因には個人の不摂生だけでなく、労働条件(長時間労働、不規則勤務。雇用格差、職業ストレス)が大きいとも主張する。

続くU部「「健康のしくみ」を考えてみましょう」ではストレスを健康の大敵と位置付ける。健康食品など世情流布されている健康知識の誤りも指摘し、驚かされる。急激な運動が突然死を招くという心肝を寒からしめる話もあった。

最後のV部「本当に怖いのは「メチャ・ド・リスク症候群」」においてメタボ以上に健康に重要な問題をまとめている。働き盛りの過労・ストレスが健康破壊の元と指摘した上で、「ゆとり」が重要と主張する。肉体的・精神的なゆとりに加え、生活のゆとり(収入の安定や文化的なゆとり)、生き方のゆとり(生き方の多様性を尊重)が必要で、それらを支える社会のゆとり(社会保障や支えあい、平和)が最重要とする。

著者の立場は現在の厚生行政と対照的である。著者は社会格差や労働条件のような社会的な要因を不健康の原因と捉える。これに対し、厚生行政ではメタボの原因を個々人の生活習慣、不摂生に求める傾向が強い。

個人の問題に矮小化することで、不健康を生み出す社会の問題から国民の目をそらせることができる。しかも肥満者に自助努力(生活習慣の改善、減量)を要求することで、健康産業は新たな金儲けの機会を得ることになる。本書から浮かび上がる国民不在の健康政策に恐ろしさを感じた。

 

『見捨てられたがん患者さんへ』の感想

本書は豊富な治療実績を有する医師が「がん難民」の救いとなる休眠療法について説明した書籍である。がん治療は手術、抗がん剤治療、放射線治療が三本柱だが、これら標準治療を使い切ると、緩和医療しか残されていない。緩和医療は症状を和らげることを目的とし、がん病巣への治療はしない。これは死を待つだけの状態で、このような患者を本書では「がん難民」と呼ぶ。

がんが進行・再発した重度の患者には手術や放射線治療は限られており、抗がん剤が治療に中心になる。しかし、抗がん剤は副作用が強く、心身ともにボロボロになってしまう。そこで休眠療法の意義がある。これは腫瘍の根絶ではなく、長期に渡り増殖せず、静止したままの状態を保つことを目指す治療である。がんに勝とうとすると、たとえ勝ったとしても過酷な治療でボロボロになる。それよりは引き分けを目指し、今生きている状態を継続させる考え方である。ここには発想のコペルニクス的転換がある。

一方で休眠療法の具体的内容はオーソドックスである。休眠療法では患者一人ひとりの体質や病状に合わせた量の抗がん剤で治療する。使用する抗がん剤の量が少なくなるため、副作用を抑制できる。

本書では休眠療法に効果があったことを実際の臨床例から紹介する。2人に1人は効果があったという(119ページ)。また、標準量では効かなかった抗がん剤が休眠量では反応したこともあった(130ページ)。がん細胞の増殖経路と抗がん剤の相性によって少量の抗がん剤でも効果を発揮するとの仮説が紹介されており(132ページ)、研究の進展が望まれる。

本書は一般読者向けに平易に説明しており、がん治療の構造的な問題点と休眠療法の利点を容易に理解できる。平易な表現にしたために複雑な問題が捨象されている可能性があるが、著者の主張は常識に照らして納得できる。たとえば抗がん剤の量を患者各人の体質や病状に合わせて処方することは、患者から見れば当たり前のことである。

むしろ本書の主張が標準から外れた異端扱いされているところに現代医学の硬直性がある。標準として定められた量しか処方せず、患者が標準量の副作用に耐えられなくなったならば治療を放棄する。これでは「がん難民」の発生は必然である。著者が孤軍奮闘しなくて済むような状況になることを期待する。

 

呼吸器外し不起訴で忘れられた本人の意思

富山県射水市の射水(いみず)市民病院で患者7人が人工呼吸器を外され死亡した問題で、富山地検は2009年12月21日、殺人容疑で書類送検された医師2人を不起訴にすると発表した。今回の不起訴処分には本人の意思軽視という危険がある。

富山地検の竹中理比古・次席検事は人工呼吸器の装着と取り外しを一連の行為とし、「被害者(患者)の死期を短縮させ、生命を断絶させるための行為ではない」と不起訴の理由を説明した。具体例として、「死に目に会いたい」という家族の声があって、呼吸器を取り付けたケースを挙げた。本人の意思の有無は不起訴の判断と直接的な関係はないとしており、家族の意向を重視する。

この不起訴処分の論理は、家族が希望すれば自由に延命治療を中止できることに行き着く。個人の尊厳が確立していない日本社会において家族の希望に委ねることは危険が大きい。竹中次席検事が例示した「死に目に会いたい」という理由だけで延命することは本人を無視した家族のエゴである。

現実に高齢者虐待は各地で報道されている。高齢者を虐待するような家族は本人の意思に反しても延命治療を求めることはない。そこまでいかなくても、本人の尊厳やQuality of Lifeを考えた上ではなく、治療費負担や葬儀日程の都合から延命治療中止を求める可能性がある。それらが「家族の同意」によって正当化されてしまうことは恐ろしい。

たとえ家族に悪意はなく、「苦しんでいるから早く楽にしてあげたい」という一見本人のことを考えた動機にも問題がある。

「苦しみが和らげば、生きていてよかったというふうに患者は思うかもしれません。」(井田良「終末期ケアをめぐる医と法の倫理」『慶応義塾創立150周年ブックレット 学問のすゝめ21』慶応義塾、2008年、51頁)

加えて、そこには「生の苦しみ」への想像はあっても、「死にいく苦しみ」が忘れられている。

射水市民病院の麻野井英次院長は事件後に看護師達に以下のように語っている。

「人間息ができないことほど苦しい状況はない。水におぼれる状態を想像してほしい。せめて心臓が動いている間くらいは酸素を送ってあげよう。生命活動を支える最も重要な物質である酸素だけは命のつきるまでは送り続けよう」(中島みち『尊厳死に尊厳はあるか ある呼吸器外し事件から』岩波書店、2007年、119頁)。

日本では「闘病」という表現が象徴するように苦しみに耐えて頑張りぬくことを美徳とする傾向があった。モルヒネで痛みを緩和することまで不道徳なこととする発想さえ存在した。その種の前時代的「頑張りズム」から解放され、安楽死や尊厳死も含め、闘病しなくてもいいという選択肢を選べるようになったことは大きな前進である。しかし、そこでも本人を無視した家族の意向が重視されることは残念である。

 

健康法

異色の健康論『北芝健のアンチエイジング道場』

本書(北芝健『北芝健のアンチエイジング道場』バジリコ、2007年)は元警視庁刑事にして作家の著者による健康を維持する秘訣をまとめた書籍である。著者は自伝的なノンフィクションやマンガ原作のようなノンフィクションを問わず、多くの作品を発表しているが、それらの大半は自らが在職した警察の話題である。それに対して本書は健康をメインテーマとしており、著者の作品群の中でも異色である。

世の中では空前の健康ブームである。何しろ貧富を問わず、老いや死は何人も免れない。健康が多くの人の関心事となることは当然である。また、現在では医療費の増大が国家財政を圧迫しつつある。故に病気になってから治療することよりも、病気を防ぎ健康維持に努めることは社会的要請でもある。この点で健康への関心の高まりは好ましい傾向である。

一方で、健康志向の高まりについて批判する立場もある。その極端な例がタバコ規制に対する禁煙ファシズム論である。そこには健康を至上の価値とすることで、不健康な活動を排斥し、社会から豊かさや多様性が奪われてしまうことを懸念する。管見は禁煙ファシズム論を支持するつもりはないが、健康を目的化する風潮に窮屈さを感じる人が少なからず存在するであろうことは理解できる。

そのような健康志向がもたらす息苦しさとは本書は無縁である。本書の「はじめに」のサブタイトルは「不健康なことを楽しむには、健康な身体が必要なのだ!」と書かれている。「不摂生をしても病気にならない生活習慣」という禁欲的な健康追求家から見れば不道徳と非難されそうな章もある。健康は人間にとって目的ではなく、生を楽しむための手段であることが本書の一貫したスタンスである。

内容的にも著者の健康法はユニークである。一般に健康志向は自然志向に結びつく。自然の素材を食し、人工的な合成物を避ける傾向にある。しかし、著者はサプリメントの効用を説く。著者自身、サプリメント代として月15万円を投資しているという。

この点についての著者の思想は、糖尿病とインシュリンについての記述で明確化されている。著者はインシュリンを最後の手段とし、食事制限や運動を主体とする糖尿病の治療法に批判的である。反対にインシュリンを活用して、時には好物を食べて楽しみながら血糖値をコントロールする治療法に好意的である(92頁)。

末尾に「本書の健康術の効果は、著者自身の身体を基準にしたもの」との注意書きがあるとおり、本書の内容が万人に効果があるとは限らない。しかし、本書の思想は健康志向の人も、一般の健康志向に疑問の持つ人にとっても考えさせられる内容である。

 

【書評】『「朝5分」で、健康になりなさい』朝食抜き健康法

本書(石原結實『「朝5分」で、健康になりなさい』アスコム、2009911日発行)は「朝5分健康法」の解説書である。著者は東洋医学を取り入れた独自の食事療法や運動療法を提唱する医学博士である。

著者は健康維持のために生活習慣の改善を奨める。自然界に存在しない化学物質を使った薬やサプリメントには副作用があり、体のバランスを崩すためである。一方で生活習慣の改善は規則正しい生活や運動などハードルが高そうである。そこで「朝5分健康法」が登場する。これは朝起きて僅か5分間で簡単に実践でき、1日の生活を快適に送ることができる健康法である(4頁)。

実際のところ、本書は「朝食を抜く」「身体を冷やさない」など消極的な指針が多い。健康維持・増進のために積極的に何かを求める一般の健康法と比べると異色である。積極的に行動することは一見すると前向きで達成感があるかもしれないが、「行動しなければならない」という義務感が逆に人を縛り、苦しめることになりがちである。これに対して本書の健康法は自然に取り組むことができる。

本書のユニークな点は朝食を抜くことを推奨していることである(42頁)。朝食をとらない人が増えていることを批判的に報道するマスメディアとは対照的である。これは著者が老廃物の排出作用を重視するためである。人体は睡眠時に蓄積した老廃物や毒素を排出する。このために起床時に目脂が溜まる、口臭がある、尿が濃いという現象になる。ところが、朝起きてすぐに食事をしてしまうと、消化器官が活動する分、排出作用が阻害されてしまう。その結果、老廃物の排出による血液浄化作用もストップしてしまう。

栄養素の吸収は無条件で健康にとって善と考えてしまいがちだが、それほど単純ではない。吸収と排出はトレードオフの関係にある。栄養素を吸収している間は、排出作用が十分に働いてはくれない。がむしゃらに前に進むだけの健康法とは奥深さが異なる書籍である。

 

心理

『きょうだい メンタルヘルスの観点から分析する』を読んで

本書はメンタルヘルスの観点から「きょうだい」の問題を分析した書籍である。家族の問題では親子関係や夫婦関係に注目が集まりがちで、きょうだい関係は閑却されてきた。しかし、夫婦共働きの家庭などでは親以上に「きょうだい」と接する時間の方が長い子どももいる。それ故、きょうだいに着目した本書には意義がある。

本書の考察対象は兄弟姉妹を包含する。本書が「きょうだい」と平仮名で表記している理由も、この点にあると思われる。実際のところ、きょうだい関係に問題が起きている中には「男の子だから」「女の子だから」と親などから押し付けられたジェンダーに起因しているものが少なくない。

また、本書は「長男は○○」、「次男は××」という類のステレオタイプな決め付けを戒める。それらは星占いと同レベルである。「ひとりっ子」についても、「ひとりっ子」だから対人関係能力が乏しく社会性・積極性に欠けると結論付けることは偏見とする(84ページ)。親の保護が手厚いのは「ひとりっ子」に限らないためである。兄や妹という立場から結論を引き出すのではなく、個別具体的な家族関係から分析することが本書のスタンスである。

そのために本書では様々な創作事例を基に説明する。そこでは「きょうだい」の問題といっても純粋に「きょうだい」の間で生じた問題ではないことが分かる。親の偏愛など家族の歪みが「きょうだい」の問題を引き起こしている。故に本書は「きょうだい関係の問題を考える際には、それを家族全体の文脈の中でみていくことが必要」と結論付ける(201ページ)。

「きょうだい」とは同じ親から生まれた存在であり、良きにつれ悪しきにつれ、親の存在は非常に大きい。そのため、親の死は「きょうだい」関係の大きな危機になる。本書は「親の死、その後の遺産の処理などをめぐって、きょうだいの対立が起きると、その現実的な処理や対応の困難さだけではなく、心理的に潜伏していたきょうだい間の葛藤が復活して、事態を複雑化し、互いの敵意や憎悪に発展することも少なくない」と述べる(111ページ)。「二子玉川親方の死去に際し勃発した若乃花、貴乃花きょうだいの確執」(「はじめに」)が有名である。

本書では上記パターンの考察が薄いが、相続紛争が増加している近年では重要な問題であると考える。相続では他の「きょうだい」には到底受け入れられない「きょうだい」間の意識の対立が背景にあることが多い。日本国憲法が法の下の平等を謳い、戦後民法は均分相続を規定しているにも関わらず、未だに戦前の長子単独相続を当然視する意識が一部に残存しているためである。また、相続人の配偶者が相続に口を挟むことで事態を一層紛糾させがちである。それ故に家族全体の文脈の中で相続をめぐる「きょうだい」の葛藤を研究することは今後の課題になるだろう。

 

【書評】『セックスする脳』相手の気持ちの理解が大切

本書(米山公啓、二松まゆみ『セックスする脳』メディアファクトリー、200887日発行)は脳を専門とする医学博士と恋人・夫婦仲相談所長による対談である。恋愛や欲情やセックスを脳の観点から分析する。男性(米山氏)と女性(二松氏)の対談でもあり、男性と女性の感覚の相違も理解することができる。

たとえば男性は視覚情報処理を司る右脳優位で、女性は言語や論理的思考を扱う左脳優位である。そのために男性はAVが好きで、女性は官能小説に興奮するという傾向の違いが生まれるとする(120頁)。感覚的に納得できる男女の相違であるが、脳の観点からも説明できることに驚かされる。

また、悲しみや怒りと記憶の関係について興味深い記述がある。「深い悲しみや激しい怒りなど、感情を強く動かされると、扁桃体が活動して一気に忘れない記憶にしてしまうので、怒りは一生消えない」(140頁)。これが被害者と加害者の意識のギャップになっていると考える。

一般に加害者は被害者の痛みを被害者ほど重大に考えない。私は大手不動産会社から不利益事実を隠して新築マンションをだまし売りされたが、そのお詫びは「ご購入者にご迷惑をおかけした」という軽いものであった(林田力『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』97頁)。一般の消費者にとって不動産が一生に一度あるかないかの大きな買い物であるという最低限の想像力さえ大手不動産会社は持ち合わせていなかった。

本書では被害者側に乗り越える精神を持たせる形でまとめているが、加害者側も加害者の想像する以上の痛みを被害者側が抱えていることを認識することが関係改善の第一歩である。「怒りは一生消えない」という被害者の重みを科学的にも示したところに本書の意義がある。

本書の最後で二松氏は女性から男性への「ここだけはわかっておいてね」というお願いとして、「女性も性欲はあるわけだから、ちゃんと抱いて欲しい」と語る(153頁)。女性からセックスレスの相談を受ける二松氏は、女性は性欲がないと誤解する男性が多いと指摘する。一方で性欲があると言っても男性の性欲とは異なるため、男性の感覚を押し通せば溝が深まるだけである。ここでも相手の気持ちを理解することが大切であると感じた。

 

エッセイ

『いのちの恩返し がんと向き合った「いのちの授業」の日々』を読んで

著者の山田泉氏は元養護教諭で、乳がんの闘病体験をもとに「いのちの授業」に取り組み、マスメディアにも取り上げられた人物である。「いのちの授業」は重い病気を患っている人達や死期の近い人達の体験談を聞くことで、子ども達に生と死の意味を考えてもらう授業である。

本書は20073月に養護教諭を退職してからの生活を中心にまとめたものである。文章は詩、インタビュー、いのちの授業の記録、日記、対談、娘の手記と様々な形式で構成されている。

不治の病の闘病生活で死と向き合うというとサナトリウム文学を想起するが、そのような重苦しさは本書にはない。自宅療養とはいうものの、「いのちの授業」の出前にでかけたり、自宅を「保健室」として開放したり、フランス旅行に出かけたりと刺激的な日々を送っている。

これは著者の明るい性格のなせる業であるが、実際のところ、がんには痛みも伴い、苦しい筈である。精神論や楽天性だけでは如何ともし難い。それでも明るさを失わず、活動的な日々を送る著者に生命力の強さを感じた。

特に印象に残った内容は上野創氏との対談である。養護教諭ながら年間100時間以上の授業を行い、がん患者となってからは患者会を立ち上げ、いのちの授業が話題となった著者は、型破りで非常にユニークな養護教諭の筈である。

しかし、その著者でさえ採用4年目の頃の卒業式で、子どもの髪のゴムの色がバラバラな状態を見て、「あんないろんなゴムの色をしてていいんですかね」と発言したという(203頁)。日本の学校にいると、皆が揃って同じ色のものを身につけるのが自然と考えてしまう空気に染まってしまうと述懐する。

この対談では他にも日本の学校のおかしな点が挙げられている。例えば教師が一日中ジャージを着たままで、子ども達に美やお洒落を教えられるのか、と問題提起する。そのため、著者は綺麗な色の洋服を着て学校に行くように努めたという(207頁)。

また、大分県日出生台の米軍演習に反対している人の話を聞いた時は、子ども達にとっては米軍演習に反対することよりも身近な非合理に気付くことが大切と諭された。例えば61日や101日に一斉に夏服や冬服に衣替えするが、実際はまだ暑かったり、寒かったりする。それを変に思わないことが問題と指摘された(214頁)。

そして学校の問題は制度に起因するとしても、現場の教師の発想の転換や工夫によって大きく変えることができるとまとめる。このように本書のスコープは学校運営、学校教育全般に及ぶ。「いのちの授業」や保健室登校に関心がある方はもちろん、学校教育に問題意識のある方全てに一読を推奨する。