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林田カイロプラクティック院

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呼吸器外し不起訴で忘れられた本人の意思


富山県射水市の射水(いみず)市民病院で患者7人が人工呼吸器を外され死亡した問題で、富山地検は2009年12月21日、殺人容疑で書類送検された医師2人を不起訴にすると発表した。今回の不起訴処分には本人の意思軽視という危険がある。

富山地検の竹中理比古・次席検事は人工呼吸器の装着と取り外しを一連の行為とし、「被害者(患者)の死期を短縮させ、生命を断絶させるための行為ではない」と不起訴の理由を説明した。具体例として、「死に目に会いたい」という家族の声があって、呼吸器を取り付けたケースを挙げた。本人の意思の有無は不起訴の判断と直接的な関係はないとしており、家族の意向を重視する。

この不起訴処分の論理は、家族が希望すれば自由に延命治療を中止できることに行き着く。個人の尊厳が確立していない日本社会において家族の希望に委ねることは危険が大きい。竹中次席検事が例示した「死に目に会いたい」という理由だけで延命することは本人を無視した家族のエゴである。

現実に高齢者虐待は各地で報道されている。高齢者を虐待するような家族は本人の意思に反しても延命治療を求めることはない。そこまでいかなくても、本人の尊厳やQuality of Lifeを考えた上ではなく、治療費負担や葬儀日程の都合から延命治療中止を求める可能性がある。それらが「家族の同意」によって正当化されてしまうことは恐ろしい。

たとえ家族に悪意はなく、「苦しんでいるから早く楽にしてあげたい」という一見本人のことを考えた動機にも問題がある。

「苦しみが和らげば、生きていてよかったというふうに患者は思うかもしれません。」(井田良「終末期ケアをめぐる医と法の倫理」『慶応義塾創立150周年ブックレット 学問のすゝめ21』慶応義塾、2008年、51頁)

加えて、そこには「生の苦しみ」への想像はあっても、「死にいく苦しみ」が忘れられている。

射水市民病院の麻野井英次院長は事件後に看護師達に以下のように語っている。

「人間息ができないことほど苦しい状況はない。水におぼれる状態を想像してほしい。せめて心臓が動いている間くらいは酸素を送ってあげよう。生命活動を支える最も重要な物質である酸素だけは命のつきるまでは送り続けよう」(中島みち『尊厳死に尊厳はあるか ある呼吸器外し事件から』岩波書店、2007年、119頁)。

日本では「闘病」という表現が象徴するように苦しみに耐えて頑張りぬくことを美徳とする傾向があった。モルヒネで痛みを緩和することまで不道徳なこととする発想さえ存在した。その種の前時代的「頑張りズム」から解放され、安楽死や尊厳死も含め、闘病しなくてもいいという選択肢を選べるようになったことは大きな前進である。しかし、そこでも本人を無視した家族の意向が重視されることは残念である。